4『空しい思いは喜びに』

                          川名 礼子

 私は若かった二十代の頃、「人間は何のために生きているのか」、「来る日も来る日も同じことの繰り返しで、人生の目的は何処にあるのか」、と解らないで悩みつつ、毎日を仕方なしに生きていました。空しい思いを埋めるために読書や映画を求めましたがその時だけで、現実に戻るとまたもとの空しさだけが残って、希望の持てない日々でした。
 そのような中にあって、時々買物に立ち寄るお店の奥さんから、「教会へ行きませんか。」と誘われました。素直になれない私は悩みの中にありながらも、なかなか行く気になれず断り続けておりました。その方は私の顔を見さえすれば言葉をかけてくれて、その都度トラクトを渡してくれました。頂いたトラクトは数知れず、ほとんど読まないで捨てていました。しかし何故かそのお店に立ち寄ってしまうのです。
 そんなある日、ふと『教会にいってみようかな。あんなにあんなに誘って下さるのだから。』と、やっと重い腰を上げて教会の門をくぐりました。牧師先生の説教内容はまったく覚えておりませんが、その教会の中で今まで感じたことのないある暖かさを肌に覚えました。それからというものその雰囲気に触れたくて集会に続けて出席するようになりました。説教の内容を理解するには遠かったのですが、「解っても解らなくてもとにかく聖書を毎日読むように」と勧められ、早速聖書を買い求め、時間の許す限り読むようになりました。
 聖書を読んで知ったことは、私は罪ある人間で罪の中に生活しているのだということでした。日を追うに従って罪が重くのしかかって来て、「もう限界だ。これ以上耐えられない。この耐え難い罪の重さから助けてほしい。」という思いでいっぱいでした。そんな時、『ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。』というみことばが目にとまりました。まさにその時の私の思いにぴったりでした。
 牧師先生にすべてを打ち明け、父なる神さまの前に罪の告白をし、イエス・キリストを信じ、聖書の教えに従って生きる決心をし、共に祈っていただきました。
 次の日、今までと変わりない一日が過ぎていきました。でも、私の心の内は喜びに満たされ、たましいの奥底から嬉しさがこみ上げてくるのです。自分でもこのわくわくした気持ちは何だろうと不思議でなりませんでした。目に触れるすべてが新鮮でした。私はイエス・キリストを信じたことにより罪赦され、新しくされたのでした。間もなく洗礼を受け、晴れてクリスチャンとなりました。私は百八十度変えられたのです。あの空しさはいつしか消え、ほんとうの人生の目的を聖書に見つけました。
 あれから三十七年という月日が過ぎて行きましたが、今もあの時と同じように日々、聖書のみことばに導かれております。戒められ、励まされ、またある時は慰められ、勇気を与えられ、教えられて今日も歩んでいます。(1997/11/23)
                         
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