29『イエス・キリストの赦し』

                      斉藤禮子

 私が教会に出入りするきっかけとなったのは、主人との出会いです。脇町教会員(徳島)の一青年が主人と知り合い友人となり、トラクトを主人に手紙で送って来て、それを今度は主人が「とても大切なことが書いてあるので丁寧に読んでほしい」と私に渡しました。
 そして、将来教会生活を共にしませんかと誘われました。母に「結婚したら教会生活をするかも知れない」と告げた時、「お前はもう賢一さんにさしあげたものだから、賢一さんが教会生活をすると言い、それに禮子も心を合わせるなら、それでいいのではないか」と反対しませんでした。母が選んだ人ではなく、自分で選んだ人だから親に心配かけないようにしようと決め、主人の両親とも仲良く暮らそうと思いました。
 しかし、心で決めたことと現実は違っていました。両親が教会生活を快く思わないこと、経験の全くない農業生活。受洗しても少しも変わらない生活に疲れ、しばらく教会を休んだことがあります。主人や牧師夫妻、麻生さん達が一生懸命声をかけてくれました。
 ある時礼拝で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と牧師先生が聖書を読みました。「あっ、これ知っている。聖書のことばだったんだ・・・」と気付かされました。小学校の下校時、校門の外で話しているのを聞き、「この人すごい人だなぁ。こんな人、人間にはいないよなぁ〜」と子ども心に思ったものです。まさか聖書のことばだったなんて知りませんでした。礼拝に出席していても全く受け身で人の読む聖書を聞き、人の話す説教を聞き、「今日は良かった」とか「今日はうんぬん」と言っていた自分が、神様の前に恥ずかしくなり、自分で聖書を読み始めることにしました。
 イエス様は「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)と言われました。イエス様がすぐそこにいてくださったのです。うれしくなって感謝しながら聖書を読んでいたら、「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(第一ヨハネ4:20)とありました。
 悔い改めの涙で聖書が読めなくなりました。どうしてこんなに何もかもご存知なのかと思うほどです。イエス・キリストのそば近くにいて、このようにみことばをもって導いて下さること、忠告して下さることにただただ感謝のみです。赦された者として、私も赦していかなければと思わされました。
 そして、毎日「主よ、変えられない者を受け入れる心の静けさと、変えられる者を変えて行く勇気と、その両者を見分ける英知を与え給え。」とお祈りしながら生活しております。本当に感謝でございます。(2003/6/22)

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