27『魂の監督者のもとに帰った喜び』

                    山口耕司

 救い主イエス様を信じる信仰に導かれるまでの私は、天地の創造主なる神様を無視して自分中心の生き方をしていました。時には自分の人生について考えると自分は何のために生きているのかわからず、心にポッカリ穴が開いたようにどうしようもない、むなしさで心が重くなりました。
 私は大学一年生の時,寮のルームメイトに誘われて教会に行きました。それから1カ月に1回とか不定期に、教会の礼拝に行くというよりは、牧師の人柄に引かれて行っていました。
 そしてある日,その牧師に自分の疑問を素直に打ち明けました。「先生、なぜ神様が全知全能だったらこのように罪深い人間を造ったんですか。」というふうに質問しました。すると、普段は優しい牧師が、その時は深刻な厳しい表情になって、「山口君,その考えは良くないよ。」と言われ、聖書にある「ローマ人への手紙 9章20節〜23節」を開いて私の質問に答えて下さいました。
 そのみ言葉に自分の名前を当てはめると、「しかし、人(耕司 ←私の名前です)よ、神に言い逆らうあなたはいったい何ですか。形造られた者が、形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」となり、その後には、「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。」とあります。
 このみ言葉を聞いて、本当に神様が私のような罪深い者を正しい怒りをもって滅ぼされても仕方のない存在なのに、神様は、豊かな寛容をもって私の事を忍耐し、イエス様が私の罪の罰の身代わりとして十字架の上で死んで下さったほどに愛してくれているということがわかり、イエス様を救い主と信じる救いの確信が与えられました。そして、私は翌年、自分の誕生日に洗礼を受けました。
 「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロ第1の手紙 2章25節)
 これからも色々あると思いますが、すべて事を働いて益として下さるイエス様と共に歩み続けたいです。(2002/10/27)


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