24『イエス様の愛に気づいて』

                H.S

 私は幼い頃から神様の存在は信じていましたが、その愛には気づいていませんでした。そしてすべてにおいて自分の栄光を求め、人からの評価を得る為にあらゆることに対して努力し、人に褒められることを最大の喜びとしていました。私が1番になれるのは自分の努力の成果で、他の人が1番になれないのは努力が足りないからだと思っていました。極めて傲慢、高慢でした。
 高校生の時も、部活でNo.1を目指して練習に励み、2年生の中から選ばれて試合に出してもらえることになりました。試合直前の日曜日も礼拝を休み、練習に行きました。その時に事故が起き、ムチウチ症になってしまったのです。それ以後は後遺症に悩まされ、運動全般ができなくなり、さらに痛みがひどくて、授業もまともに受けることができなくなってしまいました。
 この時初めて、大きな壁にぶつかりました。後遺症がひどく、部活や勉強(= 努力)をしたくてもそれが出来なくなったのです。自分の力では、何もすることができなってしまいました。
 そんな目の前が真っ暗になっていた時、シニアハイキャンプ(高校生対象)に行きました。
そして、そこで講師の先生の証しを通して、「私たちは全てのものを失い自分の弱さを知った時、神様の愛に気付き、求めているものを妨げられた時、神様はそれ以上のすばらしいものを与えてくださる。」と教えられました。また、何も出来ない私を一方的に愛し、私の為に十字架にかかって下さった。それほどまでに私を愛してくださっているということに、初めて気付きました。
 それからの私は神様に愛されていることを確信し、神様を求めるようになりました。ところが、高慢はまだ私の心を支配し、御心よりも自我の方が強かったのです。それは、私が行きたかった大学と神様が用意して下さった大学が違ったことから、いくら祈って志を求め、御心だと思って突き進んでも、またその道が閉ざされるに違いないという思いが私の心を支配したからです。そのため大学生活全てが虚しくなり、神様の愛が分からなくなり、神様に背を向け神様を見ないように努めました。しかし、心の底では御心が知りたかったし、毎日の虚しさから本当に脱出したかったのです。そこで、主による解決を求めてKGK(キリスト者学生会)のキャンプに行きました。ところがキャンプ最後の夜になっても何の解決も見つかりませんでした。私は苦しさのあまり、泣きながら本気で神様にその思いを訴えました。
 そんな時、クリスチャンの友人が声をかけてくれ、十字架の愛と彼女の証しをしてくれました。私は隣に座っている友人がイエス様のように思えてきました。イエス様は私の真横にピッタリと座って「私には見えていますよ」と言わんばかりに、それまで私が見て見ぬ振りをして、心の底にしまってあった罪を、心を突き刺すように教えてくださいました。イエス様の愛が分からなくなっているのは、私がこの罪を認めないからだということを、神様は静かに友人を通して教えてくださいました。そして、第一希望の大学に入れなかったのは、私がいつまでも自分の力に頼って高ぶり、傲慢の罪を犯し続けないための、イエス様の大きな愛の故なのだと知りました。私の心は、「イエス様、本当にごめんなさい」というお詫びの思いでいっぱいになりました。
 それ以来、心の重荷はスッと軽くなり、毎日が感謝と喜びで一杯になりました。また、人生の基盤を聖書におき、迷った時は、聖書は何と言っているかを考えて進むので、安心感があります。私の疑問や悩みが全て解決したわけではありませんし、まだまだ罪を犯す弱い者です。しかし、何よりもすばらしいのは、「自分は神様に本当に愛されている存在なのだ」という、生きがいを発見したことです。ですから、神様の愛を信じて歩んでいきたいと思います。(2001/10/28)

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