20『私の人生で経験したこと』

                           千葉久江

 人に相談したり頼ることが苦手な私は、ひとり夢中で働いていました。当時夫は病気がちで、子どもたちはまだ小学生であったと思います。亡くなった母はずっと以前から「教会へ行き、イエス・キリストを信じるように」と言い続けましたが、「宗教など私には必要ない、そんな面倒なことをしなくても自分で十分生きていけるから」と思っていました。
 母の死後一ヶ月程して急に母恋しさと、母のことばを無視してきた親不孝の責めを感じ始めた時、教会から「来ませんか」と電話があり、行く決心をしました。
 外側にいては決して生涯わからなかったでしょう。その内側に入ってみてわかったことは、単なる宗教ではなかったこと、私たち人間のいのちに関わる重大な事実「永遠のいのち」のことなのです。この世界(宇宙)や人間を造られた神様がおられること、そして、今も死後も一緒にいて下さるこのことが、どんなにすばらしい事実であるかと実感しています。
 全くの無知でした私が、実際に唯一の神様の御愛を知ることができるようになるには、長い道のりが必要でした。教会に行き、牧師先生のメッセージに、また家で聖書を読む中で当時生活との戦いであくせくしていた私に、聖書のことばが心に留まりました。
 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
 本当にこのようなことがあるのだろうか。天地万物を創造された神様が、名もないような私を個人的に覚えてくださり、私に代わって問題を解決してくださるとは。何の力もない私が、どうにもならない問題を抱えて思い煩っている。神様のことばの前にそれがどんなに愚かなことかと思い、重荷を神様におゆだねしようと決心しました。けれども、ふと気がつくと、相変わらず自分で背負って悩んでいるという状態の繰り返しです。ゆだねるということは、容易なことではありませんでした。
 このような私がいつしか、神様によって生かされていることを常に覚え、その内に憩う者とされました。ひと口に「キリスト教」といって毛嫌いしていたことを思います。人生とは自分で努力して生きる、それで良いではないかと思っていた私、それは的外れな生き方であって、造り主である神様の前に罪であったこと。私たちを一切の負い目や罪から解放し、人間の価値・目的を与えてくださること。イエス・キリストが十字架で苦しみ、死んで、そして復活されたことは、私のためであったことがわかりました。
 毎日聖書を読む生活から生きる励ましを得て、イエス・キリストが私と共にいて下さることを実感しています。以前は不平不満でいっぱいでしたが、今は心に深い喜びと平安が生まれました。(2001/2/25)

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